(更新月:2000/10)
タ イ ト ル コ メ ン ト
 修禅寺  修善寺温泉発祥の寺
 日枝神社  修禅寺に隣接し、昔は修禅寺の鎮守さま
 奥の院(正覚院)  18歳の弘法大師が修行した所
 指月殿(一切経堂)  源頼家の冥福を祈った指月殿
 源頼家の墓  虎溪橋際にある箱湯で暗殺された
 源範頼の墓  日枝神社下にあった信功院で自刃した
 十三士の墓  挙兵前に殺された家臣を祭ってある
 謎の黒髪  仏像から3束の髪の毛と経文が発見された
 堀藤次親家  頼朝、頼家の側近として活躍した
 加藤景廉  平家の目代山木判官平兼隆を討った
 安達藤九郎盛長  老臣の一人として幕政に加わった
 独鈷の湯  弘法大師が独鈷杵で霊泉を湧出させた
 温泉の歴史  修善寺温泉の歴史
 湯汲式  独鈷の湯を汲み修禅寺本堂へ献湯

修善寺の沿革

 修善寺町では縄文前期(7000年以前)の遺跡が数個所発見されており、
 この頃には既に人間が生活を始めていたことがわかる。

 しかし、それ以後の弥生から奈良時代に至るまでは、多少の遺跡が発見された程度で、
 詳しいことは不明である。

 当町の記録された歴史の始まりは、平安初期に弘法大師が修禅寺を開基した頃からである。
 当時は地名を桂谷と呼び、寺名を桂谷山寺といっていたが、鎌倉初期には、
 寺名を修禅寺というようになっており、地名も寺領だったところから修禅寺と呼んでいる。

 この時代には源範頼、頼家が幽閉され暗殺されるという源氏興亡の哀史の舞台となっている。
 室町後期に至り、現在呼ばれているように、寺名を修禅寺、地名を修善寺と区別するようになった。
 徳川初期には、金山奉行の大久保長安が瓜生野金山を開発し、慶長小判などの金が採掘された。
 また、紙谷では修善寺紙が漉かれ、これを色よし紙といって上流社会で珍重された。
 徳川末期になって、下田開発と共に街道宿として、本立野宿が栄えている。
 温泉場としては、明治に至るまでには既にある程度開けていたが、
 この頃の宿は共同浴場を利用していた。

 明治になってから湯治客専用の内湯旅館が誕生し、交通機関などが整備されて、
 多くの文人墨客が訪れるようになった。

 大正末期には駿豆線が修善寺まで開通し、修善寺駅前周辺が整備されて急速に発展した。
 このとき、修善寺は他村に先がけ、郡下最初の町制が施行された。
 昭和30年代に至り、下狩野村、北狩野村と合併。
 その後、平成16年4月1日に修善寺町、中伊豆町、天城湯ヶ島町、土肥町の4町が合併し、伊豆市となった。


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